私の記憶にある西鉄ライオンズは、すでに万年最下位の球団になっており、その後「太平洋クラブライオンズ」「クラウンライターライオンズ」となっても状況は変わらなかったため、人気は低迷、ついには西武に身売りされてしまった。
(当時は、人気の”セ”,実力の”パ” と言われており、パリーグはただでさえ、人気がなかった。)
平和台球場は、小学生は外野席は無料で入れたため、練習中のホームランボールを拾っては、練習中の選手にサインをしてもらい、ちゃっかりそのまま持って帰ったりしていたが、大目に見てくれていたのはありがたかった。
ちなみに、当時投手の東尾修はチームが最下位に低迷する中でも20勝以上を挙げており、チーム勝利の半分近くを叩き出している。
西武移籍後は、ライオンズというチーム名は継承されたものの、手塚治虫のイメージキャラクタを始め、すべてがお洒落に変身、チーム成績も5年後くらいにはリーグトップクラスになり、チームにとっては西武身売りは功を奏した形となった。
平和台球場
Lions Replica Uniform
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